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歴史を知る

寺伝によれば戦国戦国時代初頭の応仁二年(1468)済庵玄思大和尚が、大湯上岱山中に開創したのに始まり、火災などによりその後現在地に移転したと伝える。

ただ、江戸期に入ってこの開山済庵玄思大和尚の法系が不明であったことから、元禄五年(1692)十一世祖月易全大和尚が本寺耕雲寺に法系を正したところ、比定すべき人物が不明であり、耕雲寺十二世笑山厳悦大和尚を開山の勧請し、それにより古代開山済庵玄思大和尚、伝法開山笑山厳悦大和尚となしたと伝えている。

南北朝期に津軽に拠った南朝の重臣北畠氏とのルートに当たるこの地に、南朝の武将で耕雲寺の修行僧であった傑堂能勝大和尚が開いたと思われる。当時は多くの弟子を育成し全国に輩出し、江戸末期には直末寺81ヶ寺、孫末寺558ヶ寺を数えた。その弟子の一人であった古代開山済庵玄思大和尚はこの地に住し一寺を開創したのであろう。

また、寺伝では開基は阿保親王としている。平安初期の平城天皇の第一皇子であるが、平城天皇が皇位を弟の嵯峨天皇に譲った後に、薬子の変に連座し左遷されて皇位を剥奪され、承和九年(842)急死した不運の皇子である。しかし、その子が「伊勢物語」の主人公とされ、六歌仙の一人で歌人在原業平である。その末裔に源義経の奥州避行に同行した者がおり、平泉城亡後、その後一族がこの鹿角の地を開拓し、勢力を伸ばし後に花輪代官を勤めた鹿角四性の一人・安保氏系柴内氏であると言われている。

​一方、南部氏の時代に入り、慶長年間(1596〜1615)に住持した三世虎山玄龍大和尚が、盛岡藩二代藩主南部利直公の読書師範を勤め信任極めて厚く、寺領のほかに肖像画、竹袈裟、水晶数珠など賜り、多くの歴代住職も読書指南役に任じたことから、南部氏を中興開基として祀られております。

由 緒

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